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【アラベスク】  第10章 カラクリ迷路



第3節 幸せをあげるよ [2]




「華恩を呼び捨てにした事は黙っておいてやるよ」
「別にバラしても構わない」
「親切は受け取っておくもんだぜ」
 奥二重の瞳が細められる。
「だが、そうだな。大した喧嘩を売ってきたんだ。呼び捨てにしたかしないかなんて事、いまさら何の意味もないか」
 そう言って陽翔はチッと舌を打つ。
「まったくの予想外だ。お前の行動なんてもともと大して予想もしていなかったけど、これはさすがに面食らったよ」
 秋風が、二人の間を吹き抜ける。雲行きがさらに怪しくなり、辺りを薄暗くし始める。
「これで、大迫美鶴は終わりだな」
「そんな事にはならない」
「やけに自信あり気だが、華恩相手にお前がどこまでできる?」
「どこまででも」
 瑠駆真は拳を握り締める。
「僕はどこまででも美鶴を護りきる」
 険しさの増した瑠駆真の表情に、陽翔はふと瞳を閉じた。そして再び開いた瞳には、雨雲にも負けないドンヨリとした、だが熱く鋭い光が宿る。
「言っただろ。俺はお前をぶっ潰したい」
 それまでの飄々とした声音とは明らかに違う、腹の底から吠えるような声。
「俺はお前が嫌いだ。初子先生を殺したお前が嫌いだ」
 口にするたび、怒りが湧き上がる。
「お前が幸せになるなんて、俺にはどうしても許せない」
「僕は母さんを殺してなんかいない」
「殺したんだっ!」
 激しく叫び、両手の拳を握り締める。きっかけさえあれば瑠駆真を殴ってしまいそうだ。
「お前が初子先生を殺したんだ」
 肩で荒く息をし、必死に理性を保ちながら陽翔は唸る。
「だから俺は、絶対にお前をメチャクチャにしてやる」
 一歩前へ。
「お前と大迫美鶴の仲は、俺が必ずぶっ潰す」
 そこで卑屈に顔を歪める。
「どこまででも護りきる? はんっ お前には無理さ」
 さらに一歩。
 引くものかとその場で陽翔を見返す瑠駆真との間は、もう手の届く距離。
「俺がお前を潰す」
 地を這うような声に、だが瑠駆真は意外なほどにハッキリとした声で言い返した。
「無理だ」
 陽翔の瞳を揺れる。
「小童谷、君に僕を潰すことはできない」
「大した自信だな」
 中学時代には部屋に閉じこもってばかりだった陰気な少年。そんな存在に面と向かって反論された。
 忌々(いまいま)しい。
「お前のバカさ加減にはとことん感心させられるよ。だがな、これでお前は終わりだ」
 湧き上がる怒りに溺れてしまいそうで、むしろその声はどことなく虚ろ。
「お前はそのうち唐渓から追い出される。早くて来週中。もちろん大迫美鶴もだ。お前のせいで退学させられるんだ。彼女、怒るだろうな。きっとお前を恨むだろうな。唐渓で虚仮(こけ)に扱われながらも今まで学校に通ってきたのにな。入学だって学校生活だって、かなりの金をかけてきたんだろうしな。でもそれが全部、お前のせいで台無しになるんだ。無駄に終わるんだからなっ」
 いつになく口数の多くなる陽翔。言葉が口を飛び出すほどに、激情が痺れた感覚となって脳内を占領していく。
「お前は学校を追い出され、大迫美鶴に嫌われ、惨めに路頭で迷うんだ。ざまぁみろっ!」
 吐き出すように悪態をつく。だが瑠駆真は動じない。それどころか、自分とは反対に感情を露にする陽翔を、憐れんでいるようにも見える。
 憐れむ? こんな奴に俺が同情されているというのか?
 陽翔は苦虫でも噛みしめてしまったかのような表情で、それでも無理に笑顔を作る。
「大迫美鶴を護りきる? ふんっ それほどまでに言うのなら、お手並み拝見といこうじゃないか」
「臨むところさ」
 短く答え、瑠駆真は一歩踏み出す。陽翔の横をゆっくりと擦り抜ける。
「小童谷、僕を見縊(みくび)るなよ」





 頬に一粒。空を見上げると、ドンヨリとした誰の目にもわかる雨雲が、一面を占領している。
「雨か」
 美鶴は誰に言うともなしに呟く。実際、傍に誰かいるわけではないし、すれ違う人も美鶴になどは構わない。
 岐阜から戻り電車を乗り換えようとして、ホームで談笑する唐渓生の姿を見かけた。
 車で送り迎えしてもらってる生徒も多いのに、どうしてこういう時だけしっかり出現するんだ。
 見つからないように駅の構内を移動し、一度、駅の外まで逃げ出てきてしまった。
 私、何やってんだろ。
 手に持つ色褪せたカバンが重い。
 結局、通帳を見せるところまで話を進めることはできなかった。いや、そもそも、通帳なんて必要なかった。父の存在を知るのに、こんな通帳など必要なかったのだ。







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